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王延鈞

王延鈞(おうえんきん)は十国・閩の第3代王。後に王鏻(王璘)と改名している。

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後唐天成元年(926年)12月8日、王延鈞と王審知の養子である王延稟が協力して政変を起こし、王延翰を殺害して王位を継承した。即位後まもなく後唐より節度使、琅邪王、閩王に封じられている。

王延鈞は仙術に心酔し、宝皇宮を建築し道士陳守元に与えている。また陳守元の言葉に従い帝号を欲し、長興8年(932年)に後唐に対し呉越王、尚書令に封じるよう求めるが、後唐が拒否したため両国の関係は断絶してしまう。

長興4年(933年)、王延鈞は皇帝を自称し、国号を大閩と改め、独自元号として龍啓を建元、自らも王鏻(王璘)と改名した。しかし王延鈞は自国の国力を客観的に理解し、無謀な国勢運営を行わなかったため国内は比較的安定していた。

後宮関係では王延鈞は陳金鳳を寵愛していた。陳金鳳は元来王審知の婢女であり、容姿は美しいとは言いがたいが淫蕩な性格を有していたという。王延鈞が晩年病を得ると、陳金鳳は部下の李可殷と私通するようになり、国人はこれを大いに恨んだと言う。永和元年(935年)、陳金鳳は立后されるが、王延鈞の病状は更に悪化するに至り、王延鈞の子である王継鵬と皇城使李倣は事前に陳后の勢力を排除すべく挙兵、李倣が宮廷内に入り王延鈞を刺し、瀕死の重傷を負った王延鈞は宮女の助けを借り自害、陳后勢力は一掃された。

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2009年04月26日 13:32に投稿されたエントリーのページです。

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